飛影はそんなこと言わない

クリント・イーストウッド監督・主演「グラン・トリノ」をレイトショーで観る。大変素晴らしい映画だった。その素晴らしさを僕は伝えたいのだけど、僕が感じたものを言葉にしても、それは伝わらないような気がする。その魅力は解体され、腑分けされたただのパーツにしかならない、それは混沌に穴を空けるようなものだ。
そこで僕は、否定神学的な手法を取りたい。否定神学とは「神は〜ではない」という否定表現で神を語ったものだ。

ちょうど、上映前の予告編で観た「はりまや橋」という映画がすげえ地雷臭がプンプンしてたのでこれを引き合いにしてグラン・トリノについて語っていこう。

で、「はりまや橋」なんだが、まずクリント・イーストウッドはそんなタイトルはつけない!日本3大がっかり名所の一角を飾る花のないモンをよりによってタイトルに冠したりは絶対しない!タイトルは作品の顔で、またテーマを象徴するもの。「グラン・トリノ」のタイトルになったヴィンテージ・カーは主役のイーストウッド演じる老人を、そして伝統的なアメリカのメタファーだ。「はりまや橋」が暗示できるのはせいぜいガッカリ感くらいのものである。

また「はりまや橋」のテーマは人種差別で、日本で黒人の老人が亡くなった息子の足跡をたどる話。アフリカ系アメリカ人の監督がメガホンをとった日米韓合作映画(アメリカ人が日本が舞台の映画を作ってどこに韓国が絡む要素があるのかは知らない)らしくはある。しかしクリント・イーストウッドはそんなリアリティのないことはしない。日本でリアルに差別を取り扱うなら部落・在日は避けて通れんだろうと(異人種じゃないから人種差別じゃないないもん!っつー屁理屈は聞かん、レイシストはくたばれ)。その点、イーストウッドアメリカの今をテーマにしている。「グラン・トリノ」も異人種間の軋轢をテーマにしているが、白人と東洋系移民の話でそのうえ、その白人も元はポーランド系の移民である。その白人が東洋系に反感を覚えるのだが、現在アメリカでは白人はすでに人口比で半数を割ろうとしている。もはや白人がマイノリティになりつつある。そういったリアリティやテーマのアプローチでも「はりまや橋」はまったく敵わないのだ。

そしてこれは、今の邦画全般に言える悪癖だが、「はりまや橋」の主題歌はmisonoの「終点〜君の腕の中〜」っつー作品を盛り上げるのにまったく寄与しない、適当なタイアップ・ソング!(@avex)クリント・イーストウッドは当然そんなことはしない。エンディングに流れる曲はそのものズバリ「グラン・トリノ」。しかも歌いだしはイーストウッド自ら歌ってるつー気合の入れっぷり。俺はmisonoをバラエティ番組でしか知らないんだが、この人の中にこのテーマを歌い上げるようなブルーズはないでしょう?

以上も「グラン・トリノ」の魅力の一部でしかないのだが、残念ながら俺はそれを語る言葉を持っていない。ぜひ、みんな劇場に足を運んでもらいたいものである。

・・・ところでもちろん、「はりまや橋」は本編を観てすらいないのだが(そもそも公開前だ)、これが万が一、いや億が一にも傑作だったらどうしよう。あー、でもすげえ地雷臭で絶対観にいく予定もないし、そんな酷そうなものに割く時間も金もない。人生は短い、みんな「グラン・トリノ」という傑作を観て有効な時を過ごそう!